修士論文の終わりが見え始めた。これは嘘だ。嘘を書いてでも希望を持たせないと筆が進まないような気がしたからだ。
学会の発表スライドは全く出来ていない。これは本当だ。時には現実を見つめなくてはならない。
もうこれが終わったら二度と論文もスライドも作らない事を決意しているが、多分後者は仕事でも作らされる。
学会なんて参加しなければ良かったと思っている。これも本当のことだ。せっかく修士課程に来たのだから、研究した証として学会発表ぐらいはしておきたかったし、研究室で発表出来るぐらい成果が出ているのが俺しか居ないので1学会に出ることでそんな彼らに対して優越感を得たいという不純な動機もあった。
冷静に考えたら、そんな俗っぽい目的を満たす程、学会参加は楽ではないし特に得られるものがあるわけでもない。来年からおそらく技術職になるので研究方面で何か実績を作っておく必要は特に無い。
そもそも、俺が専攻を変えてまで修士課程に来たのは計算機科学と数学を満喫するまとまった時間が欲しかったからであって、その目的は修士 1 年の段階で達成してしまった。よって学位に特に拘りは無いのだが、修了しないと内定が取り消される可能性があるので渋々修論を書いたり、その副産物を学会に出したりしている。
そういうわけで手を抜く事にした。学会に関しては発表と質疑応答の時間を過ぎてしまえば特に問題はない。こういう時だけは時間の一方向性に感謝している。手抜き資料のせいで教授に怒られるかもしれないが、怒られる程度で済むなら問題ないだろう。
修士論文も同様だ。これまで作った資料のコピペで済まなさそうなところは思い切って書かないことにした。1 時間、いや 30 分もあれば書けるとは思うが、補足事項のようなことばかりで研究の本質ではない。こういった周辺部分は論文の本筋が出来てからで良い。もっとも、本筋は既に書き終えているのだが。
そうやって広げた風呂敷の端を削っていくと、残っているタスクは今日中どころかあと数時間で終わることが判明した。
生活をどんどん小さくしていくと、やはり最後に行き着くのは「労働」を無くすことになる。そう考えていたら Kindle Unlimited に「「山奥ニート」やってます。 | 石井 あらた」と「寝そべり族マニュアル:なるべく働かないで生きていく eBook : ゆるふわ無職」という本があったのでどちらも読んだ。
どちらも羨ましい生き方だとは思うし真似したい部分もあるが、根本的に真似できない部分があった。前者の方は「共同生活」、後者の方は「最低収入のための労働」である。
現在は大学の寮を名乗る監獄のような施設に住んでいるが、こういった監獄特有の狭さや設備の古さ自体は問題ではない。問題なのは一部の設備 (洗濯機とシャワー) が共用なせいで、自由に使えない可能性があることだ。他にも故障した場合に、自分の裁量では修理の依頼をしたり交換することが出来ない。申請出来たとしても一人暮らしに比べると大きなタイムラグが発生する。実際、昨年 10 月頃から階に 4 つあるシャワーの内、2 つが故障のまま数ヶ月放置されている。張り紙はされているので大学側も認知しているはずだが、予算が無いのか職務怠慢な体質なのか未だに直されていない。
こういった形で、共同生活では生活に対するある部分を他人に委託出来る事の裏返しであり、自分ではどうしようも無い事が発生する。実家に帰省した時ですら、そう感じる事があるし根本的に人と共に暮らす事が向いていないと思う。
後者の「最低収入のための労働」はそれがやりたい仕事だったら特に問題は無いが、どうも本を読んでいる限りだと、「不本意ではあるが、比較的低負荷で出来る業務を最低限のシフトで行う」という労働形態を勧めていた。私も出来れば労働をしたくないので気持ちはわかるが、そこで提示されている仕事を最低限するぐらいなら、一応技能が有って楽しめる業務を週 5 で行う事の方が精神的には良いと思う。そして運が良い事に一応そういう可能性がある仕事に就くことになっている。労働を無くすという目的であるとは言ったが、「苦痛」が少ないのであれば別に労働をすることも吝かでない。良い暇潰しになるし、何故かお金も発生しているという状態になれば最高だ。
とは書いたが、多分半年ぐらい経って研修を終えてから、業務に対する理想と現実がかけ離れている事が判明して、そんなことも言ってられなくなると思う。その時は読者の皆様に盛大に笑ってもらうとする。
-
そもそもそんな状態だと修士論文も書けないんじゃないかと思ったりするが、1 人は「修士は努力賞」を地で行くような状態らしいし、もう数人は半年休学を挟んで修了を遅らせている ↩