スマホを持たずに散歩に行き、帰りにサラダを買ってこようとしたら、財布にクレジットカードを入れるのを忘れてスマホも無いので iD や PayPay も使えずレジで謝罪して取りに戻る羽目になった。これだけなら財布にクレジットカードを入れておけばいいだけの話だが、歩数や消費カロリーの計測に Google Fit を使っているのでこれが使えないということも判明した。というわけで以降は次の 2 つのどちらかの手段をとる予定である。
- これまで通りスマホを持って外に出て、出る前に通知をオフにする
- 古い端末 (SIM が入っていない) を持って外に出る。帰って Wi-Fi に繋げると Google Fit のデータを同期してくれる (はず)
健康管理目的でしかないので Fitbit を買っても良い気がしてきた。ちょうど睡眠時間のトラッキングをしたいとも思っていたところである。
ちなみに財布にクレジットカードを入れていなかったのは、スマホで決済出来る手段が増えて不要だと思ったからであるが、どうしてそんな思考になったのにスマホを持たずに外へ出るなんて事を考えたのだろうか。なお、現金を持っていないのは当然である。
堀晃の「バビロニア・ウェーブ」が Kindle Unlimited に来ていた。ウィッシュリストに放り込んでいた本が Kindle Unlimited に来るのは多分はじめてだと思う。創元 SF 文庫がそれなりにあることもわかったので 3 ヶ月の無料期間を超えて続けることも検討している。ちなみに年末のハヤカワ文庫セールで「プロジェクトぴあの」を文庫の上下巻で衝動買いしたが、単行本の方が Kindle Unlimited に来ている事が判明して微妙な気持ちになった。
インターネット文芸空間 (これは Twitter や note の事を指す) で好きな文体をしている作家1が、小説でそのままの文体を使っていると、妙な違和感が発生するという事がわかった。小説として好きな文体というのがやはり存在するらしい。
昨日、「ビッグバン宇宙論」の 1 章がつまらなかったという話を書いたが、2 章は面白かった。光速が有限なのかという疑問からエーテルの存在性、相対性理論の登場、膨張宇宙の提唱という流れで話が進み、どのトピックも疑問に対する仮説を立てて、それを立証するための確固たる実験を行う自然科学のプロセスが描かれていて、当事者でも無いのに立証されていく過程が気持ちよかった。
私は講義でも研究でも物理学実験に適合出来ず、結果として専攻を変えてしまったため、実験に関しては教養レベルで知る以上の事は出来ないが、「自然科学において理論は実験で観測された結果に支えられている」という原則は頭に留めておきたい。
「偏執狂 (へんしゅうきょう)」の読み方を知った時は「執」が「しゅう」と読む事に意外性を感じたが、「妄執 (もうしゅう)」は既に読み方を知っており、それと同じ事に今更気付いた (この間隔はおよそ 2 ヶ月ほど)。加えて「執念 (しゅうねん)」も同様である。
「依存 (いそん)」の「存」が「そん」と読むのに違和感を覚える際も「存在 (そんざい)」を思い出して納得したことがあるのだが、意外な読み方も同一の読み方をする熟語を探してみると実はあるというケースが結構あるのではないかと思う。
スライドのような視覚的な資料の作成が非常に苦手だが、これは別に今に始まったことではない。中学や高校で課外学習における体験をポスターやアルバムにまとめるという作業があったが、何もしなかったという事だけ覚えている。俺に不思議な能力があるのか知らないが、チームのメンバーが勝手にやってくれるので、文字通り何もやらなくても済んでいた。もっと正確な事実を加えると、図を作ろうとすると嫌な事を思い出した時と同じ回路が反応する。
あとは「まとめる」という作業も苦手らしい。基本的に俺が書く文章は書きたいことを縦に繋げていくだけになることが修士論文を書いていて判明した。それを自覚したのもあってこの日記も出来事を縦に並べているだけの形式に落ち着きつつある。
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私の日記と Twitter をそれなりに見ている人間は多分どの作家の事を指しているかなんとなく想像がつくと思う ↩