ここ最近、読書が全然出来ていなかったので1昨夜は意図的に読書をする時間を取った。とりあえず借りてきた「ハッカーと画家」を読み切りたかったので残り 1/4 ぐらいまで読んだ。この本の原著者であるポール・グレアムは言わずとしれた Lisp ハッカーであり、動的型付け言語を好んでいるようで、巻末の用語集にも次のようなことを書いている
LFSP 賢い人のための言語 (Language for Smart People)。安全性より力を優先する言語
LFSP が書籍中で動的型付け言語の事を指す根拠は (著者が型を書きたくないと何度も言っている以外には) 書籍中に無いため、LFSP が動的型付け言語の事を言っているというのは仮定でしかないが、Python の貧弱な型ヒント (そしてそもそも存在しないに等しい型システム) に丁度苦しんでいる身としてはあまり賛成したくはないが理解はできる。安全性や制御フローの網羅性、変数の寿命や型の整合性を自分の脳内でチェックできる人間にとって動的型付けをはじめとした「安全性より力を優先する言語」は鬼に金棒である。
こんなことを書いてしまうと逆が成り立つような事を言う人が現れるかもしれない、つまり安全でない言語を使いこなしている (と錯覚している) 俺は賢い人なのだ、と宣う人間だ。もちろんこれは偽である。こういった言語のユーザーで賢くない人間の文章を今、君は読んでいることから明らかだろう。
一方で、では静的型付けを使いこなせる人間はどうなのかというと、度合いにもよるが個人的には型推論が上手くいく現代的な言語でもそれ以外のところで難解なところがあったりして (関数型や所有権といえばどの言語を指すかはある程度想像がつくと思う) 難しく感じるので私の目からは賢く見える。
結局、「言語やその機能を使いこなしている」という面では言語仕様の違いに関わらず書いている人間は賢いという当たり前の話である。そして残酷な事に型も十分に付けられなくて動的型付け言語を使っている人間 (俺) は動的型付け言語でも深刻なバグを引き起こしてまともにコードが書けないだろうし、頑張って静的型付け言語をやってみようとしたら開発効率が最悪になって開発自体を諦めてしまう。要は馬鹿とプログラミングスクール卒にプログラミングは無理ということだ。コンテキストを無視した自虐と私怨が出てきたのでこの話はここで終わりとする
TA 業務の一環として「採点」が発生した。対象となる提出数 (問題数と人数を掛けて未提出分を差し引いたもの) は 20 とちょっとなので思った以上に量があることが判明した。リファレンスとなる答えは別の TA が作って置いてくれているらしいのでまあなんとかなるだろう。運良くその係は今後も含めて免れた。
残っている問題はフォーマットを守らない人間の処遇をどうするかだ。「PDF で提出してください」とわざわざ提出するファイル名のフォーマットも含めて書いてあるし講義でもそんな事を言っていた気がするのだが、平気で別のフォーマットで出してくるやつが居る。別に資料に小さく書かれているということもない。
拡張子 .docx で提出してくる人間に対しては、人格と「理系なのにそんな文章作成ソフトウェアを使っている」という事実を疑うという意味で気分を害するが、可読性の問題は特に無い。私が Windows を使っていて命拾いしたな。
.txt で出してくるという予想の斜め上 (どちらかと言えば下だ) の奴も居た。これまで誰も指摘してこないような環境だったのだろうか。ご丁寧に数式はちゃんと記号に変換して書いてあったが、TeX の記法のインタプリタを脳内に積んでいるとそんなものより\equiv
とか書いてくれた方がかえって読みやすい事がある。
PDF で出してきても油断できない。手書きのプリントを写真で撮ってスキャンしたものを提出しているやつも居た。なるほど、これなら確かにフォーマットも違反していない。それはそれとしてこの方法が一番人格を疑う。プレーンテキスト (.txt) なら一応可読性の高いフォントで読めたり、コピペして TA 間で提出を共有出来たりするのだが、ただの画像として出されるとそういうことが出来ずに採点が困難になる可能性がある。
そういえば前にも一度、(臆病なのでコメントアウトした上で) 大学院の情報学系の現状が思っていたものと違ったというような事を書いた気がするが、これもその内の 1 つだ。ここ (大学院) に来るまでに「LaTeX で文章ぐらい作るだろ、そうでなくても TeX 記法が埋め込めるサービスを調べて使うだろ」なんて思っていたが、そんな幻想は捨てた方が良いかもしれない。もっとも、あと数ヶ月で修士課程も終わりなのでそんな幻想はあってもなくても関係が無い。
-
これは嘘で「フォン・ノイマンの哲学」を一気読みした。感想を加えておくと、哲学の話はなくただの伝記に過ぎなかったのがやや不満だった ↩