引越してから 2 つの路線が使えるようになり非常に便利になったのは良いのだが、先日会社に行く際に何も考えずによく使う路線の方へと吸い寄せられてしまい改札を抜けてしまった。運が良いことに数駅先に会社から徒歩 10 分ぐらいの駅があるのでそこで降りて事なきを得た。と思いきや、会社までに急な坂が有り先週の登山の筋肉痛が残っていて死にそうになったのであまり事なきは得ていない。今後このルートを使えば 1 本で行ける上に足腰も鍛えられるという強引にポジティブな思考をして乗り切っている。
転職してから労働環境と待遇に満足してしまい1、人生の大きなマイルストーンが無くなった。影響度の高い脆弱性を見つけるとか OSS のコミッタになるとか計算機科学や数学に精通するだといった目標や、離島に行くとか海外旅行に行って銃を撃つとかギャラクシーズ・エッジに行くというようなやってみたいことや行ってみたい場所は有しているが、達成するまで死ねないというような目標はもう既に有していないことに気付いた。強いて言えば勤務先と自分の双方が安定して健康で文化的な最低限度の生活を維持し続けるというぐらいである。
これは何も悪いことばかりではなく、言い換えれば自由時間が何らかの目標で拘束されるという事が無くなったということなので、何をしても自他から責められることはない。最近は健康な肉体を手に入れようと努力したり仕事に関連するスキルを緩く磨いたり生活を整える努力をしたりと、大げさに言えば自己啓発に近い事をしている。自己啓発は意識が高い学生がするものだと思っていたが、ある地点を通過して一旦「無」になってしまった人間が再びエンジンをかけるために始めるケースもあるのではないかとふと思った。
何故俺が冷笑オタクになってしまったかを考えていたが、当事者にならないと共感が難しいという至極当たり前の原則に忠実だからだと思っている。別にサイコパスを自称しているのではなく人並みに共感性はあるが、共感したところで当事者ではないのだから何をすれば良いのかわからない。この論理に忠実な事例が最近あったので取り上げる。
1 つ目は中東の方で起こっている紛争で、当然この文章を極東の国で書いていることから当事者ではない。したがってどちらの陣営に対して肩入れするというような事は無いのだがどうも世間では米国の支援を受けていない陣営の方が (先制攻撃をしたのにも関わらず2) 同情されているように見える。
一方、私は先日リサーチ業務の一環でインターネットから消え失せた貴重な技術解説を読むために Wayback Machine を利用していたのだが、同情されている方の陣営寄りのハッカー集団がサイバー攻撃を行ったせいでアクセスできなくなった。この紛争や背景にある国際問題に関する事象で初めて自分が当事者になったのがこのサイバー攻撃ということになる。
これによって私はこのハッカー集団が支援しない方の陣営に肩入れするようになった。そうは言っても横断幕を掲げて街中で叫ぶような事はしないし、これからも無人機やミサイルが飛んでくる心配の無い国でたまにスポーツの結果を確認するのと同じ感覚でニュースを見るぐらいである。陣営とは関係なく今回のサイバー攻撃で被害を受けた archive.org には寄付でもしようかと思っている。
他にも X の規約改定がクリエイターに影響を及ぼすことで義憤 (と冷笑) がタイムラインで発生していたが、私はクリエイターで無ければ当事者の方々による創作物が無いと死ぬような人間でもないため、当事者性を喪失したまま議論が目の前を流れていった。
むしろ世間で AI と呼ばれているものが世間で恐れられている程の力を持って世界を制圧しシンギュラリティに到達する事を夢見ているのでこの辺の技術はさっさと加速してほしい。前の節でも述べたが人生における大きな目標も無いため、人生を刺激的にするには世界の方が大きく変わってくれないと困る。