Obsidian のバージョンを上げた。0.11 ぐらいからデフォルトの日本語フォントが中国語用のフォントになっていたのでアプデしたくなかったのだが、タブ機能が追加されていると聞いたので追加した。そのついでにプラグインを追加しては「カスだな」って思って外したりを繰り返して改造していた。そして最終的に困ったら自分で書けるようにしておきたいという結論に達したので TypeScript を勉強しようと思う。というわけで本を借りてきた。
コアプラグインの Zettelkasten プレフィクサーを導入してから「書く」機会が増えた。現在の使用用途は次の 2 つ
- 流れてきた興味深い情報を即座にメモする時に使う
- 思い浮かんだ思考をとりあえず書きなぐる
1 は、Pocket がリンクに対してタグしか付けられず、ちょっとしたコメントや概要を付与出来ないことに不満を感じた時に使っている。例えば、今日だと日本一短い祭である塩嶺御野立記念祭の事について祭りの開催地の情報を付与したりするために使った。
また、2 のおかげで最近また少し増えてきたツイートを抑える可能性がある。公開アカウントの方は本を中心とした作品の感想と CTF の話を書くだけになっているし、非公開アカウントの方は中途半端な技術ポエムだけを投稿するように心がけるようにしている。後者は昨日ぐらいまであまり守られていなかったが、今日は Tweetdeck の投稿欄にちょっと書いてから「あ、これ Obsidian に書けば良いのでは?」と思って Obsidian に書くという経験を 3 回ぐらいしてツイート活動をすんでのところで抑えている。
というわけで今日の日記は Zettelkasten に書いたやつから、個人情報が無くてかつそれなりに思考が実装されているものをコピペして終わる。楽だし今後もそうするかもしれない。
“e” は偶数では無く奇数だ
バイナリを読むとかいう酔狂な趣味を持っていると 16 進数と向き合う羽目になるのだが、実は0xe
は 14 なので偶数だという事が受け入れ難い (同様の問題は0xc
でも発生しているが、これはあまりにも遭遇しすぎて慣れた)。
これはおそらくアルファベットの”e” が”5” 番目に位置するということから来る感覚的なものである。したがっていつも”e”ven という英単語を見る度に「あーはいはい奇数のことね」と思ったりする (タイトル回収)。
ちなみにこれは回避方法が存在して”even” の文字数が 4 文字で”odd” の文字数が 3 文字なことから、それぞれの文字数が偶数か奇数かで判別出来る。自分で考案したものではなく友人に教えてもらったものなのだが、非常に簡潔で使いやすいので紹介した。
文章を共有する / されるということ
SNS が社会インフラにも等しいレベルで普及した現在、他人の書いた文章を共有する事は当然のようになっているが、これは幾らリンクを正確に貼ったとしても、共有者の性格を知る人間にとっては元の意味から反れた形で伝わってしまう可能性がある。最近はこれを危惧して私の性格よりも有用性が勝るようなリンク1を除いて共有することに慎重になってしまった。
これに関連する人間は次の通りである
- 私
- 私に文章を共有された人間
- 私によって文章を共有されたのを見た人間
- 文章を共有したのを私によって見られた人間
1 と 2 については「共有される側」の視点になって考える。
まず、1 の私自身は自分の文章が共有される事が嫌ではないのでそこまで問題は無い。技術関連の記事でもポエムでも何でも RT、リンク共有して頂きたい。
一方 2 についてはどうだろうか。私の事を知らない人間ならまだしも、知っている人間の中には「自身の発言を貴方に代弁されると変な尾ひれが付いてしまうのでやめてほしい」とか、「貴方の RT で同類と見做されるのでやめてほしい」と思われる可能性が (0 ではないという意味で) ある。
3 の人間は 2 と深く関連している。「こいつ (私) が RT してるんだし大した内容ではない」と思われる可能性が考えられ、2 の人間が危惧している事を実際に引き起こす役割を持つ。
一番重要なのは 4 の人間だ。これから話す思考が存在しなければこんな記事が生える事も無かった。これは 3 の立場を反転した考えであり、つまり私が他人の共有情報を見て「こいつが RT する情報なら別に見なくていいな」とか「こいつの同意している意見だし多分大したことないな」と思う機会が少なからず存在していることは正直の述べておこう。そもそもそんなフィルタリング機能を有していなければ 10 年も SNS にへばりつくなんて事は不可能だ。
持論として「被害妄想を抱く時それは大抵自分が他人に向けている感情のブーメラン」というのがあるが、これがまさしくそのケースである。私が (特になんでフォローしたのかわからないような) フォロイーのくだらない共有を見て思ったことがそっくりそのまま自分に返ってきて 3 の人間の立場が仮想的に存在し、そこから発展して 2 が生まれてこの思考が生えた。
もっともこれは俺が昔に「下品で露悪的な文章」を好んで RT したり共有していたり、なんなら自分でそういう発言をしていたという事を「自覚している」のが悪い。そうでもなければ 4 の存在を認識したとしても、自分には該当しないと上手く棄却出来たはずだ。この時代を知る人間は今では多くは無いものの、0 では無いのでやはり文章の共有には気を遣ってしまう。
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パソカタ本の情報等 ↩