表アカウントの相互フォロワーが随分前にオススメしていた「思考の整理学」を図書館で借りて少しずつ読んでいる。3 章はメモ術の話で、知識や思考を Obsidian や Scrapbox に溜めまくっている人間 (私を含む) にとっては媒体が物理から PC に変わっているだけで結構参考になる内容だった。
情報の収集は割と上手く出来ているのだが、蓄積はそこまで上手く出来ていない。意識的にリンクとタイトルを Markdown に沿った形式でコピーしてアプリケーションに貼ったり、Pocket の拡張機能をクリックしたりするようなリンクは印象が強いだけであり、それ以外の見逃されたリンクが後々になって必要ということはよくある。加えて各種サービスの記録する機能を使っても見逃されるようなことはよく有り、Twitter のふぁぼ (いいね)、Github の star、Spotify の Like などがその最たる例である。このような埋もれがちなリンクを回収するためのシステムを考えているが、以下のように見境が無いのでハウルの動く城のようなものが出来上がりそうである
- Wikipedia のリンク間サーフィンを追従するブラウザ拡張
- Wikipedia に関わらず、登録した特定サイトのサーフィンを記録する機能
- 上記の見逃されがちなサービスの API を叩いてリンクを再回収
- RSS を配信していないサイトのスクレイピングによる更新検知
- Scrapbox の新着受け取り
以上のリンクに加え、普段用いている Pocket や RSS リーダーで回収したリンクを 1 日の終わりに勝手に記録するようにしたい。となると、Obsidian の Daily Note はこの日記とは別に 2 種類必要になるのだが、朝起きて PC を付けた時にだいたい固定で叩くスクリプトがあるのでそれに組み込んで記事を作成し、夜寝る前に終了処理を実行した時にリンクを書き込むようにすれば良いだろう。ついでにリモートリポジトリに push すれば自動でバックアップも出来て完璧だ。
下の歯の (私から見て) 左側の奥歯と歯茎の間に、その辺を舌でなぞってみると空間が有ることがなんとなく分かるレベルで大きい隙間があり、よくここに食べ物が挟まる。しばらく気付いていなかったのだが、この前デカ目の肉塊が挟まって取ったのがきっかけとなって意識するようになった。
このせいで歯磨きをする習慣が付いた。普段の食事がノンオイルツナ缶とか挽き肉のような引っかかりやすいものが主なので、食後にその辺をなぞると何かが存在している事が多い。舌で気合で剥がしても断片的に残っていたりしそうなので最近は毎食歯を磨いている。
清潔感溢れる読者の皆さんは「毎食歯を磨くなんて当たり前なのでは?」と思ったかもしれないが、私は歯を磨くという習慣が大学に入ってから付かなかった。一番の理由は最初にぶち込まれた居住空間が民間の学生会館だったのだが、風呂とトイレが共用で部屋に水道設備が 1 つも無かった。そういうわけで歯を磨くためにも部屋を出なくてはならず、結局それ以降歯を磨く習慣が毎食どころか日単位で付いていなかった。
そういえば何故か小学生の頃から虫歯とは縁が無く、歯医者は乳歯を抜く事以外でお世話になったことがない。大学入学から現在に至るまでも歯を殆ど磨いていなかったのに、歯の痛みを訴えたことは無かったのだが、口に何か凄い細菌でも住んでいるのだろうか。
昨日は今日の輪講のために予習をしていた。発表がなくとも同じ本を皆で読むのなら、一通り目を通しておくべきだというのが私の持論である。輪講で読んでいる本は専門書と読み物の中間に位置するような本で、証明はある程度一般性を失った上で過不足無い程度であり、中には初等幾何的な定義も登場する。そしてそれは数学を記号の操作ゲームだと思っている私にとって非常に難解で理解に苦しむものである。
二面体群を例にとろう。特に n=3 として正三角形の回転と鏡映を考えると 2π/3 の回転が 3 回 (内 1 つは恒等変換) と、ある対称軸での鏡映を 1 回施してからそれらを施す事の計 6 種類の変換があることがわかる。
私はこれが「本当に全うな定義になる」ということが理解出来なかった。(ある条件が付いている) 回転: r と鏡映: s から生成される群であるという定義の方が理解しやすかったし、そこから位数が 2n (n=3 なら 6) であることを非常に面倒な方法ではあるが示さないと気が済まなかった。
当然そんな事をしていれば、この予習はいつまで経っても終わらないため、この初等幾何的な定義を代数的かつ公理に従うように書き直す作業は極めて非効率的である。そして前回参加した際に、そこまで厳密な理解と発表が求められていない事も判明したため、本当に無駄な行為である (ちなみに、そういう空気感で行う事がわかってしまったため、ひどく失望しておりモチベーションが急落した)。
そしてそれもこれも全部、私が形式主義者でアスペルガー症候群なのが悪く、書籍にも輪講にも参加者にも非は全く無い。嫌悪感が自己完結しているという事実がより一層私を不機嫌にさせる。
底なしの陰鬱が襲ってきて属人的な恨みつらみを日記に書き散らし我に返って自省的になった。それでも「主張を完全に消してしまったら、この極めて人間的な自分が消滅してしまう」という恐怖感が私を支配したので、一部の記述をコメントアウトに留めた。F ラン大学院の情報学系の事情を知りたい人はこの記事のソースを読むと良い。
記述によって、自身の負の感情が析出され、それによって更に嫌悪感が増幅されるという連鎖になっている可能性に気付いた。こんな思いをしてまで書く日記に本当に価値はあるのだろうか。