経験則として「時間が経過するごとに目に見える趣味や娯楽になりうるものは増えていく」というのがある。特にここ数年はインフレーションレベルで目の前が広がった気がしていてやりたいこと、学びたいこと、読みたい本が急増した。そうなるとこれまでの趣味や娯楽は相対的に魅力が薄れる。
私もかつてはゲームに興じていたが、(やれる範囲の) やりたいことが増えたせいでゲームのやる気が意識せずとも薄れてしまった。当たり前のことだがこれは別にゲームの方がつまらなくなったというわけではないし、他方で他のコンテンツが急に面白くなったというわけでもない。娯楽の面白さ自体は不変であり、単に娯楽リストに要素を追加すれば、相対的に元のコンテンツの面白さは薄まるし、加えてその度にソートしてたら古い娯楽が後ろの方に流れてしまったというだけである。特に後悔はしてないが、どの娯楽とも平等に接していけたらもっと人生が楽しいのかもしれないとは思っている。
以前は「今後も人生でずっとゲームをし続けるし、どこかのタイミングでやるだろう」と思って大量にゲームを買っていたが1結局やる前にゲーム自体に飽きが来た。そう考えると、趣味娯楽が流転し続ける以上、いつかやる系の出費 (最近だと読書における積読) はやめた方が良いんじゃないかと思う。
そういえばウィッシュリストリンクを 1 つのファイルにまとめるために Steam のウィッシュリストリンクを入手しようと Steam クライアントを開いたら、ここ最近全然ゲームしてなかったせいでセッションの期限が切れたらしく、クレデンシャルの入力を要求された。面倒なのでそのまま閉じた。
昨日の日記でも書いたように、Todo リストを Obsidian の Kanban プラグインを使うようにしたのである程度タスクを移植していたのだが、流石に買い物メモのようなスマホでの閲覧を要求するものは残した。後はメールや締切がしっかりしているもののような Google の他のサービスと連携しやすいようなものも残し、結局積読や長期的なタスク、漠然としたタスク、緊急性は全く無いが頭には入れておきたいタスク辺りが Obsidian に書き込まれている。
そういえば今日は研究や勉強をせずにひたすらタスクの整理と日常生活に関する情報収集と手続きをしていたため、非常に生産性が低かった。しかしそのおかげでタスクの整理は無事に終わって今後の見通しも良くなったし、明日からの生産性を上げるという意味では必要な日だったのかもしれない。問題は学生の身だからこういうことが出来ただけであり、働きだしたらこういうことをするのも難しくなるような気がする。
何かの本で「本当に何にも追われていない日を月に 1 日は確保しろ」みたいな事を読んだ気がするが、個人的には「追われているものを整理する日を月に 1 日は確保しろ」と思っている。具体的には以下のことを「全部」やれる日が欲しい。
- Todo リストに埋まっている塩漬けタスクの見直し
- 普段の開発環境や手段の見直し
- 不満点を挙げてプラグインを追加するとか、無いなら自分で作る事を Todo リストに入れるとか
- 任意のウィッシュリスト2の整理
- 決済手段の履歴をまとめて支出の反省会
- 不要な通知3をリストアップして解除、あるいはサービス自体の退会
- ここに出てこなかっただけで存在している有象無象
これ書いてたら、生活を完全に自動化、あるいはそこまでいかなくても少ない手間で軌道に乗せるのって相当難しいんじゃないかと思えてきた。