昨日の公理的自殺論に早速漏れがあった。それは状態遷移が「非決定的」である可能性である。遷移関数の定義域を状態と環境項の直積として定義域を状態だと暗黙の了解としていたが、仮に非決定的なら次の状態が未定義な可能性があり、これでは「関数」とは呼べないので、非決定性オートマトンのように遷移関数の値域を状態のべき集合に修正する必要がある。但し、非決定性は遷移先が未定義な場合のみ発生し、同一の状態と環境項から複数の遷移先がない仮定を敷いている。感覚としては Rust のResult
型に近く、返り値はResult<state, TransitionError>
のような型になる。よってわざわざべき集合を持ち出すのはオーバーキルである。
と、思ったが環境項と状態は現状だと独立であり、任意の状態において、任意の環境は発生可能としても違和感は無い気がする。幾ら良い精神状態でも存在しうる災害や事故が環境項として襲ってくる可能性はあるわけだし、逆に悪い精神状態でも宝くじを購入してしかもそれが当選する可能性もある。精神状態と環境の独立性を公理に組み込んでかつそれが現実の私に即していれば決定的でもなんの問題もない。
ところで、公理で扱いたい概念が割と増えてきた。例として「幸福」と「読書」が筆頭に上がる1。よってあの公理系を「自殺」にだけ限定するのは良くない。書いている原本のようなファイルはaxiom_of_suicide.md
だし、一番先頭に大見出しで” 公理的自殺論”2と書いているが、これも近いうちに変更されるかもしれない。
今読んでいる本 (詳細は注釈 1 を参照のこと) は Kindle で購入して読んでいるが、以前思っていたよりはスマホで電子書籍を読む事は苦ではない事が判明しつつある。物理媒体の本は (そもそも DRM が無いので DRM に対する概念は適用出来ないという意味で、実質) DRM フリーだとか、インテリアになるとかいう利点はあるが、絶対的な読書量が多くなってきたせいで、(今は大学図書館である程度緩和されているものの、) 金銭と空間という 2 つのコストが無視できなくなっており、私が考える物理本の恩恵が帳消しにされている。
他にも光文社古典新訳文庫が Kindle Unlimited で読めたり (狙っているのは「幸福について」「論理哲学論考」「自由論」)、Kindle はたまに大規模なセールをすることから、私の読書活動の一部を電子書籍に移すのは大いに有りだと思っている。
そういえば、マイナンバーカードを申請したからフルでマイナポイント獲得できれば (面倒そうなのでそれなりに強い仮定)、それを「Kindle Paperwhite シグネチャー」に使うのは有りだと思う。筋トレデバイスをだいたい揃えて大きな出費も予定していないのでタイミングも良い。
4 年ぐらい前にある Web フレームワーク (確か Vue.js だった) の動画教材が 1500 円ぐらいだったので購入したことがある。その時の記憶はだいたいすっ飛んでいるので金をドブにぶち込んだのだが3、記憶の揮発性以前にそもそも内容が Vue の公式チュートリアルを丸パクリ再現したような内容だった事が一番俺を嫌な気分にさせている。まあ、その当時の俺は愚かだったということにして、1500 円払って「金払う前に公式チュートリアルをやれ」という教訓を得られたということにすれば損した気分も多少は和らぐので良しとする4。
そもそもパソカタを学ぶ上で重要なものって「コード」と「コマンド」とそれらの意味とか解釈、(技術的) 背景ぐらいなもので、殆どがテキストが完結するはずである。運動や道具の使い方と違ってフォーム等は要求されないことから、眼の前で動いている様子を見たところで別にそこまで参考にならないだろうし、バージョン違い等の追従も編集がし易いテキストという媒体の方が楽だろうし、コントリビュータも集まりやすい。それなのに世間では動画コンテンツがありがたられ、U から始まる 5 文字のサービスでは経年劣化が確定している知識の劣化コピーが有料で配布されている5。
正直、そういった教材の存在の是非はどうでも良い。教材に余程の希少性がなければ買わないだけである。だが、教材を作るに当たってどのような (テキストの) 資料を参考にしたが、特にどの資料を読めば内容が再現されるかぐらいは「無料範囲」で公開すべきだと思っている。これは私が損したくないとか、テキストの方が気軽だからそうしてほしいとかいう理由もあるが、参考元やそのコンテンツをこれまで支えてきた人間に対する敬意として必要なものだと思う。
一方でそんな敬意のような心情的なものは商業において邪魔になるので無い方が儲かるという反論も概ね理解できる。ちなみに理解とは結論の肯定を意味せず、「仮定と結論はなんであれ推論は正しい」ぐらいの感覚6でいるので、結論が唾棄すべきものであれば、理解と軽蔑は両立する。
私もよく使う論法に「因果の逆転」があり、主にこれは既に述べられている因果関係にヒビを生やすために用いられる。最近の日記で健康な肉体が先なのか健康な精神が先なのかみたいなことを論じたが、そこでもこれを利用した。「目から鱗」なんて言葉があるように常識が打破された時の快感は (やられた側を除けば) 打破した者も傍観者も非常に大きく、それがこの論法の有効性に繋がっている。
ところで、私が自分の「過去の」行いを例として頭に持ってくる時は基本的に自己反省や自己指摘な事が多い。これも例に漏れず、この因果の逆転を利用することが詭弁に過ぎない場合を考える。
そもそも因果が流転している場合、例えば数学でいう同値関係の場合だったら因果を逆転させたものも真だが、逆転させる前も真である。よって逆因果が真であることを指摘したところで元の主張が偽であるとは限らない。個人的な体験に限れば「精神状態が良くなったので健康な肉体を手に入れようとし始めた」は真だが、今の健康活動をしたことによってそのうち精神の健康をそれ以上に実感する可能性はある。あるいは意識が自分の内面に向かっていることを精神の悪化とは言わないまでも良くない方向のように書いたが、それらは独立しているか、そもそも自分の内面を見つめる事が出来るぐらいには精神状態が良くなったと見なすこともできて、いずれの解釈も「運動が精神の向上につながる」という意見を否定することには繋がらない。
結局、元々弱々しい不健康な人間だった名残の反動で「筋肉は全てを解決する」とかいうネタとしても何が面白いのか全くわからないマッチョイズムとかを否定したいために、より強い命題を否定しようと試みたことは反省している。つまり、元となったそれらの否定は未だに課題として残っている。
ちなみに、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」に関しては、元となったユウェナリスの発言から「そう神に祈るべきである」という後続句が欠落して広まったり、そもそも心身共に健康であればそれ以上願うものは無い (願うならその程度にしておきましょう) というような意味だったりと色々な説や解釈があり、いずれにしても「身体が健康 => 精神も健康」みたいなことは元の意味から外れているという説がある (が、言葉は流転する)。
-
「自殺」、「幸福」そして「読書」と、ショーペンハウアーの著作ネタだが、実はいずれも未読なのでしっかり読んでおきたい。ちなみにまずは入門として、(100 円だった時に買った)今を生きる思想 ショーペンハウアー 欲望にまみれた世界を生き抜くを読んでいる ↩
-
公理的集合論 (axiomatic set theory) を元ネタとしてもじっただけなので「自殺公理」の方が正しい。あるいはファイル名の方を強引に”axiomatic suicide theory” に合わせても良いが、書かれているのは「公理 (と定義)」であって「論」ではない ↩
-
日記のネタにできたので 3 円ぐらいの価値はあるかもしれない ↩
-
実際 Rust はそうして公式チュートリアルをやった ↩
-
前述の Vue の教材はこの 5 文字のサービスで購入した ↩
-
会話において「言いたいことはわかる」みたいな表現をよくしている ↩