昨日のタイトルの元ネタは「ケーキが切れない非行少年」のつもりだったが正しいタイトルは「ケーキの切れない非行少年たち」だった。うろ覚えで引用すると恥ずかしいし、何より仮にも科学の世界に身を置いている者としてあってはならないミスである。修正することも考えたが、この日記のリポジトリは private でコミットログを参照出来ず、勝手に修正したら歴史修正主義者になってしまうという謎の拘りから修正予定は無い… 嘘ついた (なんで嘘ついたの?)、面倒なだけです。
リポジトリは Private だが、私の日記を全件 Markdown で欲しいという稀有な人間は考えうるアクセス方法で連絡してくれれば差し上げます。Twitter の TL は殆ど見ていないが、どのアカウントも通知と DM だけは Tweetdeck のカラムに入れて毎朝見ているのでおそらくリプライか DM なら気付くと思う。つまり、(鍵垢の話だが)「この人は日記へのリンクをふぁぼ1ってくれる人か~」とか「ここ一週間ぐらいふぁぼられて無いし誰も見てないのか~」みたいな事は感じている。
やるやる詐欺にならないようにようやくバドミントンに参加してきた。2.5 時間ぐらい参加した内、休憩時間を除けば多分 2 時間ぐらいは体を動かしていたと思う。Google Fit に入力したら消費カロリーが 800kcal を超えていた。
初参加だった上に、大学 (学部) の体育の講義でバドミントンをやった際に一番下のグループだったような記憶がある2ことから、醜態を晒さないか心配だったが、同じラケットを使う競技であるテニスを「一応」中学の部活でやっていたので打ち合いはまともに出来ていたはずだし、何度かスマッシュを叩き込むことにも成功した。
というわけでこれからも多分続けていくのだが、レクリエーション用の安いラケットだとやや重く、競技用のラケットが欲しくなる。ただでさえ筋肉出費が嵩んでいるところに別のスポーツ出費が発生しそうになっていて悩んでいる。
無限長の構文を許すプログラミング言語を考えていた。というのもこれが出来れば quine が自明に構成できるからである。面倒なのでエスケープを無視して次のような永遠にprint
が入れ子になっているような Python のソースコードは quine になる、というような無限長 Python のようなものである。
仮にこういったものが実現出来る場合、現在のコンピュータでは計算できないようなものも出来るのだろうか。3 秒ぐらいで考えた概念なので全く深掘りしていないしそもそも実現不可能な計算モデルだが、気が向いた時に似たような事をしている人間が居ないか探してみたい3。
昨日の日記において「計算の奴隷」に成り下がってしまった理系を騙る何者かについて論じたが、それに対して「お前 (つまり私のことである) が計算するのが嫌なだけだろ」という意見が飛んできそうな気がしたのでそれについて書く。
これはまさにその通りで私は計算という行為が嫌いであり、出来ればしたくない。昨日の日記で計算の仲間として挙げているが正直「プログラミング」も出来ればしたくない。したがってそのような意見は真実を述べているし反論の余地も無い。
問題は私が計算が嫌いだからと言って昨日の定義が揺らぐわけでも無いし、そもそもそういう人間の集合に対する性質と、そういった集合の外側に居るはずの私の性質は完全に独立していることから全くもって「無意味」な意見である。この文章を書くに当たって何度か「指摘」と書いてから Backspace を 2 回押して「意見」とタイプし直しているが、これはこの仮想敵による言及の影響が無である事に気付いたからである。
このような議論対象ではなく、参加者に対する言及を行って議論や言及を停止させる手法は多分私もどこかで無意識で使っていると思う。そもそも自分自身でこういった仮想敵を生み出していることが普段からそういう手法を用いていることの証左である。しかし、効果はあくまで議論やその参加者自体に対してであり、彼らの言明にはなんの影響も無い上に議論自体においては非生産的である事を仮想敵とのバトルにおいて実感した。
こういった手法は、名前が付いてそうな上にどこかで似たような事を見聞きした記憶があるので探ったら、グレアムの反論のヒエラルキーにおける「対人論法」や「論調批判」に該当することがわかった。これより、この手法が如何に非生産的であるかがわかる。
ところで、前述の計算的行為は嫌いであるが別に苦手では無い。特に四則演算レベルなら暗算九段を有しているぐらいなのでむしろかなり得意なのだが、それ故にその無意味性をなんとなく実感している。手順としての計算はプロシージャやアルゴリズムと呼ばれるもので包まれるし、オラクル4を持ち出す事が出来る状況なら、それらすら意識の外側において良いことになり計算自体は要求されない。
更に最近は興味がインスタンスからクラスに移る、つまり思考対象の抽象化が進んでいることからも計算が直接役に立つ事は少ない。ペーパーテストも少なくなり、自分の人生も思考も計算の時代を終えて次のフェーズに入っていることから、この能力は無力化されたも同然なのである。
もっとも、贅沢な悩み5であることは自覚しているし、自虐風自慢と捉えられても不思議ではない。ただ、そういう仮想敵が登場するという二重苦の構造にもなっていることが余計に計算を嫌うことにも繋がっている。
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もうふぁぼって死語らしいし、割と周りのオタクはちゃんと「いいね」と言っているので凄いと思う ↩
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こういった経験以外にも、高校ぐらいからスポーツに対する苦手意識があるのだが、単に体育教育 (とチームスポーツ) が苦手だっただけで、肉体を動かすことはそこまで苦手でも嫌いでも無いという結論に達した ↩
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だいたいこういうのは、既に偉大な先人が考えついて分野として成立させているか全く意味がないものとして流していることから自分で掘るより探した方が何かと効率が良い ↩
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ここでいうオラクルは、例えば数学において、存在の証明が済んだ概念に対し、その構成方法が難しくても、あるいはそもそも構成方法がわからなくても何らかのインスタンスを持ち出す事ができるというような事を指している ↩
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比喩ではなく割と結構悩んでいる、というか虚無感に苛まれている ↩